なぜこうも子どもへの深刻な虐待が起きるのか。強いものが弱いものへ手をくだせば、結末は見える筈だ。それも血の繋がった、我が子への暴力は血の気が失せる。今では少なくなったが、親が子どもを叱るのに、つい手がでてしまうということはある。それとは少し違うように見えるが、根底には親の都合を、子どもに押し付ける親の勝手な行為だ。スポーツ界でもこの手の話題は枚挙にいとまがない。選手に痛みを与え矯正を促す、との考えか。こんな行為で選手が強くなることなど到底考えられない。選手を成長させる策のない、コーチ・監督の自己満足である。しかし、我が子への虐待とはどう違うのか。恐怖心を与え、相手に手向かう心を奪い取るやり方に変わりはない。それはカルト宗教の信者と教祖の関係性をも彷彿させる。修行と称し教義を押し付け洗脳し、心と身体を破壊して行く。これも虐待とどこが違うのか。こう見てくると、現在の社会はいたる所に、いじめ、虐待構造が充満していると言っても過言ではない。どの行為をみても、相手に歯向かう手段をそぎ取ってしまうところは共通するが、親が子に対する虐待はさらに深刻だ。ストレスを抱え、はけ口とした。子どもへの躾と称し暴力を振るう。親からの虐待がトラウマとなっている。精神的異常体質があるなど言われるが、それはすべて人間の性や現象面のみだ。昔から虐待はあったのだろうが、その当時は現在の情報量とは違い過ぎて、比較は難しい。それにしても現在は多すぎる。深刻化するいじめ、虐待の根底にあるものはなんだろうか。人間をそこまで確信犯にするのは何なのか。